コラム「自然のリズム」
『自然のリズム』
生きる意味など考え始めた頃から、どうも苦しみが増したように感じてしまう。
「生きること」は、基本的には苦しいことではないかと思ったりもする。
最近になって、この理由が少しわかったような気がする。
生きていくうちに、少々余計なことを考えすぎるようになったのかもしれない。
息を吸うことを意識しすぎると、浅くて速い呼吸になって苦しくなってしまうことがある。
過呼吸とは、呼吸を意識しすぎて、自然なリズムがわからなくなってしまうのだ。
力を抜いて何もしなければ、自然と空気が流れて循環するのに、やっかいなことだと思う。
眠れない時に、眠ろうと意識を向けすぎると、みごとに眠れなくなってしまう経験が何度かある。
いつもどうやって眠りについているのか、わからなくなってしまうのだ。
変に意識をすることで、邪魔をしていることに、気が付かないから困ったものだ。
どうやら自然のバランスに、意識が入りすぎると、苦しくなるのではないだろうか。
苦しくしているのは、他でもない「私」じゃないかと気が付いた。
この「私」は、いったい何をしているのだろう。
過去の経験から学び、未来の生存の確率を高めるために、記憶という能力を持つようなったと考えられる。
記憶によって時間軸が生まれ、「私」というストーリーが自己意識を育て、個性を生むようになったのだろう。
この真面目な「私」は、生きるためにあれこれ考え奔走するのが、癖なのだ。
前向きに生きようとすれば、同時に不安になるのが、「私」の本質と関係があるのではないかと思ったりする。
「私」がいなくても、呼吸や消化吸収、血液循環など、生命の機能はちゃんと動いてくれる。
どうも「私」が頑張りすぎて、邪魔をしていることが多かったりするのだ。
「私」を殺して、社会のために生きていくのも、苦しいものだ。
すべてに身をまかせて生きていくのも、味気ないものだ。
そのように感じているのは、「私」の不安なのか、それとも欲なのだろうか。
このように余計なことを考えるから、苦しくなるのだろう。
子供のように、ちょっと邪魔をして遊ぶつもりで生きるぐらいが、ちょうどよかったりする。
きっと自然も少し大目に見てくれるのではないかと思う。