コラム「虚像の世界」
『虚像の世界』
認知症の母の在宅介護に関わる時間が増えて、最初のうちはイライラすることが多くなった。
仕事で介護に接するより、家族の介護に接するほうが大変だと思ったりもしたが、どうもそうではない事に気が付いた。
なぜそのような行動をするのか理解できず、とにかくこうしてほしいという気持ちが強くなってしまっていた。
うまくコントロールしようとしていたのだ。
私たちは時間と空間の中に自分を位置づけて生活をしている。
記憶による連続性によって時間の流れを生み出しているのだ。
認知症になると見当識障害が起こってきて、どうやら自分の置かれている状況を理解することが難しくなってくるようだ。
例えるなら、眠っている状態の間に、知らない場所に連れていかれて、目が覚めたときのような状況だ。
「ここはどこ?朝なのか昼なのか夜なのか?私はなぜ?ここにいるの?」
記憶を障害されているので、眠る前の状況を思い出すこともできない。
自分の置かれている状況が理解できないと、私たちは不安になるのではないかと思う。
突然、真夜中に理解しがたい行動をとるのは、状況が把握できていないからかもしれないと思うようになった。
家中の部屋に誰がいるのか確認しようとしたり、ドアを開けて外に出てみたりするのもきっと意味があるのだろう。
鏡面反射を映した風景を見ていると、何とも言えない魅力を感じることがある。
湖や池の中に展開される世界は、水面に反射した光を水面下から直進していると、私たちが錯覚することで生まれるようだ。
あたかも存在するかのように見える虚像の世界に魅了されてしまうのだろう。
私たちが実像だと思っている世界はどうかというと、これもまた実像そのものではなく、私たちの脳がつくりだした虚像の世界だという。
人間の眼は物理的な法則によって対象物を捉えているが、脳がそれを変換したものを私たちは認知している。
眼に入った光は、水晶体で屈折して硝子体を通って網膜に像を結ぶが、網膜の映像は私たちが認知する風景とは上下左右が逆さまになっているというのだ。
本に描かれている立体的な図形は、実際は2次元であるにもかかわらず、私たちはそれを立体的な物体として認識することができる。
2次元で見た情報を、脳内で3次元に変換する作業を脳が勝手にしているのだ。
認知症とは、虚像の世界をつくることが下手になってしまうことではないかと、私は思う。
私たちが見ているもの、そして認知しているものは、実は曖昧なものなのかもしれない。
実像の世界を捉えることはしていない。
見ていると思っているものと、脳の情報とに矛盾を感じなければ、私たちは安心して自分の現実世界にいることができるのだろう。