コラム「他力」
『他力』
大自然の景色を目のあたりにして、人は言葉にできない感動を覚えることがある。
大いなる自然を見ると、自分のちっぽけさを感じるから、そこに感動が生まれるのだろうと思ったりしていた。
感動しているのは「私」なのだろうか。
人が感動するとき、その瞬間「私」がいなくなっているのかもしれない。
「私」がいないから、言葉で表現するのが難しかったりするのだ。
「我思う、故に我あり」という有名な言葉がある。
思い・考え・疑い・悩むから、そこに「私」がいるのかもしれない。
「私」の存在を疑い否定するところから、「私」が生まれていったりするのだろう。
中から生まれるのではない、まわりとの関係性が「私」をつくっているのだ。
私たちの細胞をつくっているのは細胞だけではない。
まわりの環境ができあがり、そこに細胞すなわち生命の場がつくりだされているのだ。
まわりの環境との“つながり”がなければ、生命は存在できないのだと思う。
私たちは空間(スペース)によって生かされている存在なのだろう。
「他力本願」とは、他人に頼って丸投げするような感じがしてあまり好きではなかったが、どうもそうではないらしい。
「私」が行う自力ではないところに、本当の力「他力」が存在するという意味だそうだ。
「私」がどんなに必死に頑張っても、うまくいかない時があったりする。
自分では思いもよらない力が発揮され、思った以上にうまくいったりする時もある。
それが「他力」なのではないだろうか。
その時、人は感動するのかもしれない。
「他力」を感じる身近な存在が、自然なのではないかと思う。
壮大な自然の前では、「私」が何を頑張ろうとする必要があるのだろう。
「私」が入り込もうとすることができない世界を目の前にして、「私」が消えてしまうのではないかと思う。
言葉にできない感動があるだけなのかもしれない。