コラム「動的な視点」
『動的な視点』
「人間万事塞翁が馬」という諺がある。
人生の幸・不幸は予測することが難しく、幸運も喜ぶに足らず、不幸もまた悲しむにあたらないということを意味するものだ。
私たちの目の前に起こることは、それが良い事なのか悪い事なのか、判断することができないのかもしれません。
ただ今目の前に起こる事に対処して生きることが大切だと言われたりもする。
目の前の幸運は素直に喜び、目の前の不幸は悲しむにあたらずの方が、もっと気楽でよいと思ったりもする。
「私」という自我は、起ってくる物事に反応して、快か不快かを瞬時に判断する癖がある。
生命を維持するためには必要な機能なのだろう。
この記憶を必要以上に持ち続けると「良かった」「悪かった」と喜び嘆いて振り回されてしまうのではないかと思う。
時間軸を持たせて振り返ると、その時思ったことは「私」の思い込みだったりすることが多いのだ。
「私」の判断はそれほど正しいものではないのかもしれない。
物事を俯瞰してみるということは、動的な視点を持つということではないだろうかと、私は思う。
世の中で起きてくることは、変化し続ける一連の過程の一部分を見ているのかもしれない。
その瞬間だけを切り取って、良い悪いの判断をすることはできないのだ。
病気の症状というのもまた、私たちの生命が変化し続ける一連の過程を断片的にみたものではないかと思う。
静的にみるから、異常(エラー)が発生した病気であると認識してしまうのではないだろうか。
炎症反応というのは、防御反応であり体が修復しようとする過程の一部分なのだ。
不快な症状というのは、体に起こった変化を知らせてくれるセンサーなのだろう。
癌細胞というのは、生き残るために代償的な代謝変化を起こした細胞であり、必要があって起こってくる変化なのではないだろうかと思ったりもする。
症状に良い悪いはない、快不快があるだけなのではないだろうか。