コラム「教育とプロパガンダ」
『教育とプロパガンダ』
新薬の承認というのは、有用性が高いことが当然だと思っていた。
10年ほど前から新薬評価をするようになって、実はそうではなかったことに気が付き始めた。
その新薬の持つ臨床的意味を自分で考えてみると、あまり有用とは思えないものが多く存在するのだ。
科学は100%の再現性を持つはずだが、多くの場合は完全な再現性はなかったりする。
特に医学は不確実性が高く、確率的にそうなる可能性が高いという程度の信頼性しかない。
科学万能信仰というのは、一種のプロパガンダなのしれないと思う。
プロパガンダという言葉は、ここ2、3年前からよく耳にするようになった。
大衆操作というような意味合いで、あまりよいイメージがなかったりもする。
私たちの多くは、当たり前として認識していることをあまり深く考えようとはしないものかもしれない。
どうやら理屈ではなく、当然なのだと思ってしまうようだ。
何も考えないで自分のものとしている点では、一種の洗脳に近いものかもしれないと思う。
「常識」や「当たり前」と言葉の裏には、考える事をやめてしまっている状態があるのだろう。
小さい時からの教育によって、形成されてしまったりする。
私たちの多くは、知らない間にマジョリティが歩む道を教育されているようだ。
その中で競わされ、社会構造にどっぷり組み込まれてしまったりする。
人々を管理するためには、少なからず教育がプロパガンダになってしまうのだろう。
どうやら教育とプロパガンダは、表裏一体になっているのかもしれないと思う。
メディアの情報もまたはマジョリティのためのプロパガンダの1つだったりする。
マジョリティからはみ出し、マイノリティな生き方になってくると、メディアの情報が非常に偏っていることに気が付いてくるのだ。
生きるために自分で考えないといけなくなってしまうようだ。
マジョリティから抜け出た時に、初めてプロパガンダに気付くものなのかもしれないと思う。